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一宮支所管内の歴史的背景

ページID:0228380 掲載日:2024年4月1日更新 印刷ページ表示

歴史的背景

 管内である濃尾平野は、木曽三川の流れにより肥沃な土地が形成され、古くから木曽川の恵みを受けながら、農業が盛んに行われている地域です。

 平安時代 長保3年(1001年)、尾張国司 大江匡衡(おおえのまさひら)は地域を潤すため、木曽川派流の河川を改修し、木曽川を水源として引き込んだ水を、現在の一宮市から稲沢市に供給するため、一大用水を開削しました。この用水路が尾張西部地域の農業用水の始まりといわれ、大江匡衡の偉業を称え、「大江用水」と名付けられました。

 江戸時代に入り、尾張初代藩主徳川義直は、徳川家康の命を受け、木曽川の氾濫から尾張平野を守るため、「御囲堤(おかこいづつみ)」という連続堤を築堤する河川整備(慶長13年~14年(1608年~09年))を行いました。

 この御囲堤は、尾張平野に流れ込んでいた何本もの川を締め切って西流させることで、犬山から河口(現在の弥富市付近)に至る約50キロの長大な堤防となり、尾張平野はぐるりと堤防で囲まれ、木曽川からの取水口として般若杁、大野杁を設け、派流であった般若川を般若用水とし、また大江川と接続し大江用水や新般若用水を整備することで、尾張平野約二万ヘクタールを潤す水路を形成したことが宮田用水の始まりであり、その後の干拓による新田開発(現在の名古屋市港区南陽町・海部郡蟹江町)の礎となりました。

 現在では、犬山城の近くにある犬山頭首工から木曽川の水を取り入れ、宮田用水及び木津用水に導水しています。

 また、家康の命により築堤された御囲堤による河川整備の主たる目的としては、名古屋城や城下町の建設に必要な木曽木材の運搬路の確保にあったとされており、併せて、大阪城にあった豊臣方への防御線としての役割もあったとされます。

 一方、尾張北東部地域では、尾張藩の事業として行われた入鹿池の築造(寛永10年(1633年)完成)を契機に原野の開墾などの新田開発が進められました。

 

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御囲堤
御囲堤

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愛知県 尾張農林水産事務所 一宮支所
TEL:(0586)45-7121
E-mail: owari-nou-ichinomiya@pref.aichi.lg.jp